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ディスコ"Q&B"にて。#3

1975年、秋。

大ガードをくぐって西武新宿駅のそばから歌舞伎町に入っていくと、間近のディスコにはアップルハウスがあり、ブラックシープもオープンしていた。

その並びに「FUNKY DISCO "Q&B"」はあった。つまり、あの・・今は居酒屋のカチカチ山や、当時から営業していたエロ映画館も残っている・・あの狭く短い通りに、Q&B、アップルハウス、ブラックシープの三つのディスコが軒を連ねていたのだ。
その通りを抜ければコマ劇場前にあった噴水広場に出る。そこにはそこで、プレイハウスやビッグツギャザーなど大箱が出来はじめていたのだから、ディスコブームの急激な拡大には目を見張るものがあった。

Q&Bというディスコは、当時はかなり有名なキャバレーチェーンであった「クィンビー」の系列だったから、ディスコとは言え、店の運営は、まんまキャバレー方式だった。
朝礼の内容、店長を始め幹部のセンス、もろもろがソウイウ雰囲気だったけれど、営業時間にはいり、お客さんが入ってくれば、とにもかくにも店はディスコの雰囲気になった。

この時期のディスコヒットといえば、なんと言ってもK.C. & The Sunshine Bandの連続スマッシュ、まさに突撃マッキーバのような(←例えがなお分からん)大進撃が忘れられない。
E,W&F、Commodores、Kool & The Gangなどなど、既に日本のディスコでもお馴染みになったグループはいくつも誕生していたけれど、このマイアミからやって来たサウンドは急激に盛り上がって来ていたディスコシーンに爆発的なパワーを与えたのだ。

K.C. & the Sunshine Bandの中心人物であるH.W. CaseyとRichard Finchは74年にもGeorge McCraeの"Rock Your Baby"などを手がけて大ヒットさせ、満を持してK.C. & the Sunshine Bandとして表舞台に登場、その後のダンスチャート上位を牛耳るようになる。

当時のDJは曲の頭からかけるのが普通だったので、"Get Down Tonight"のイントロは、どこのディスコでも鳴り響くこととなり、その音が鳴れば、座っていた連中も「待ってましたぁ!」とばかりに血相変えてフロアに飛び出してくる・・そういう状態が全国に拡がっていった。

"That's The Way I Like It"では、当時、米兵が持ち込んできて流行っていたダンス"Funky Point"と相まって、核爆発的大ヒットとなった。
日本的なアレンジで、左右を指差しながら前後に4歩ずつ出たり戻ったり・・というものになっていったが、本来の"Funky Point"では首の動きがハトのようで、指先の動きと連動していた。
これらの動きがジャストビートではなくて、ブラック独特のアトノリになるので、簡単なようで雰囲気がでるのは日本人にとっては難しかった。

Q&Bでは横田基地からの米兵のアルバイトDJが何人もローテーションで来ていたので、同じチェーン店の"V-One"と並んで、経営側が意図する以上に(たぶん、現場の過度の行き過ぎに頭を悩ませていたと思うが)新宿ではダントツに黒っぽいフィーリングがベースにあったと思う。

今になって思うが、ディスコというのは、まさに生き物で、その時代その時代、いや、その瞬間その瞬間に形を変えて生き残ってきたのだ。
だから「これこそがディスコだ!」っていう言い切りは、結局のところ、その人にとってのものでしかないんだね。

ただ・・僕らがディスコに夢中だった70年代半ばは、躍りもファッションも全てが黒っぽさを求めていた時代で、それが70年代のディスコに集まっていた若者達の・・程度の差こそあれ・・共通のフィーリングだったと思う。

ディスコキッズ達が、Soul Trainの時間だけはテレビにかじり付きはじめたのもこの頃からだった。
なんと言ってもビデオがなかったから、自分の頭の中に残しておくしかなかったんだよね。
ただ、それまでの、踊り場の「先輩」「常連」などがつくっていた雰囲気や踊りとは別に、急速に本場からの直輸入が始まったのは間違いなかった。

それまでは、米兵などが限られた地域の限られた踊り場に持ち込んできていた踊りやファッションが、テレビというマスメディアによってお茶の間にダイレクトに運び込まれるようになったのだから、これは、とんでもなくエポックメイキングな出来事だったことがお分かり頂けるだろうか。

それと、あの時代は、ディスコから発信する音楽やファッションに当時のビジネスが群がって来はじめていた。

不良の溜まり場・・ただの「踊り場」でしかない箱からマンモスヒット曲や流行ファッションが生まれ始める・・。

これは今のようなミュージック、ファッションシーンとなってみれば、イメージできないことと思うが当時としてはとんでもなくすごいことだったんだ。

それまでは、ラジオ、テレビ、雑誌などなどマスメディアで宣伝費をかけた楽曲がヒットになる。
そういうものだったのに、KC & The Sunshine Bandの"That's the way I like it"だって、今じゃ誰でも聴いたことのあるマンモスヒットだけど、76年当初には、どこのディスコでも毎日繰り返しでかかっているのに、ラジオでは流していなかった。
それが全国規模のディスコヒットになったときに、マスメディアが逆に追いかけてくるようになった。

「莫大な宣伝費をかけなくても、ディスコで回してもらえば、ヒットになる=金になる」ことに企業側が気が付いたんだね。
日本では70年代後半からディスコを席巻したミュンヘンサウンドも、この手法を最大限に活かしたものだった。
 
これは1977年のことなので後日談ではあるが・・
僕らがチェスターバリーでヒットさせて全国に拡がった「ベイビーシッター」という曲は、ソウルイベリカバンドという「ルーマニアのグループの曲」だったのだけど、当時は「アメリカで大ヒット中〜〜〜!」とか言って、ディスコDJもレコード業界も、ばんばん煽った。

この曲については良く覚えているのだけど、新宿のチェスターバリーを起点に本当にあっと言う間に全国規模のビッグヒットになって、「アメリカで流行ってますっ」なんていい加減な能書きの踊りまで仕掛けられて拡がりはじめ、マジで驚いたものだった。まぁ結局、この曲のステップは仕掛け通りのものではなく、違うものになっていったのだが・・。

ディスコダンサーがテレビに出れるようになったのも、この辺りからだった。ディスコDJがレコードの解説ライナーを書かせてもらえるようになったのも、この頃から・・理由は上記から察することが出来る。

自然に、僕らは漠然と夢をもつようになった。
何が起こってるんだか、それさえも、なんだかわからないけど、巻き起こりつつあった巨大な渦の中で、夢を見はじめたんだよね。

 1976-winter.jpg
1975 Winter

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